コラムフラップレス手術について

「腫れない・痛みが少ない」か「安全・確実」か

今回のコラムは最近流行っている「フラップレス手術」について述べたいと思います。そもそも通常のインプラント手術は歯茎を剥離し骨を露出させそこにインプラント本体を埋入していくものなのですが、フラップ手術とは術前にCTなどを駆使してサージカルステント(インプラントを埋入するためのガイドになる物)を作成して、歯茎を剥がさずに予定した位置に正確に埋入しようというものです。歯茎を剥がさず骨を露出させないため、腫れも少なく術後も痛みが少ないのが特徴です。これだけ聞けばほとんどの人が「素晴らしい方法だ、ぜひ私もインプラント治療を受ける際にはこの方法でやってもらいたい」と思うのは当然だと思います。しかしそうとは言い切れない危険性をはらんでいるのです。

コンピューター上で設定した位置を正確に口腔内に再現するには通常「ステント」というものが作成されます。このステントは口腔内で動いては意味がありませんからどこかに固定源を求めなくてはいけません。通常は歯、もしくは粘膜に固定させることになります。そしてそのステントに開いている穴にドリルを入れて粘膜の上から直接骨を削ります。通常の方法であれば直視下にて行うことを手探り状態の盲目下で行いますから、やはりいろいろな問題をはらんできます。例えで言うならば、胃がんの手術でお腹を開いて手術するのか、小さい孔を開けて内視鏡で手術をするのかに似ていますが、内視鏡の場合はカメラを通すとはいえ術野を見ながら手術を行います。しかしインプラントのフラップレス手術は全く見えないところにドリルの先端があるのです。ここでいろいろな心配材料が出てきます。
「ステントは正確なのか?」「粘膜の上に置くだけで果たして正確なドリリングが可能か?」などなどです。

私はずっと疑問に思ってきましたが、ついに昨年(2007)東京にて残念な事故が起こりました。 I歯科はインプラントでは有名な歯科医院で多くの患者様が全国から訪れていました。患者さまは70歳女性、会社経営者です。事業にも成功して入れ歯での食生活が嫌になりここでインプラント治療を受けることにしたのでしょう。治療の部位は下顎の小臼歯部、経験を積んだドクターなら何でもない簡単な手術でした。そのドクターは術後の腫れ、痛みの少ない「フラップレス手術」を選択しました。術中に患者様の様態が急変しすぐに救急車によって大学病院に転送されましたが、口腔底(舌の下の部分)の腫脹による窒息のため残念ながら亡くなるという最悪の結果になりました。これは設備、症例数とも日本でトップクラスの歯科医院での出来事でした。いったい何が起こったのでしょうか?

実はフラップレス手術はガイドする穴にドリルを差し込んで所定の位置まで穴を開けるというかなり簡単な処置なのですが、そこに落し穴がありました。ドリリングの最中、ステントがずれてドリルが違う方向に進んでいるのに気付かなかった歯科医師Iはそのままインプラントを埋入する穴を掘り進めて行ってしまったのです。その方向が歯の内側でした。下顎小臼歯の横には舌動脈といって口腔内ではかなり太い血管があります。これを間違って切断してしまったようでした。しかし普通はこの舌動脈を切断しただけでは死に至ることはありません。もちろんここで止血等の適切な処置がなされれば最悪の事態は避けられたと思います。患者様の呼吸の異常等の容態の急変に気付いた歯科医師Iはすぐ救急車を呼び、近くの大学病院に転送したようです。しかし運の悪い事にここでの処置も悪く、気管切開等の適切な処置が行われればよかったのですが、大した処置も行われないまま帰宅させられ死亡に至りました。舌動脈からの出血多量による口腔底の腫脹が原因の窒息死でした。もちろん早くこの事に気付けば患者様を死に至らせることはなかったと思います。それでは何故この経験豊富な先生が気付かなかったのでしょうか? その理由は盲目下での処置だったため、動脈という軟組織に対しての損傷は気付くことができなかったのです。もし歯肉を開いてインプラント治療を行えば間違ってもこのような事故は起こらなかったでしょう。

どんなに技術が発達しても手術を行うのは人です。インプラント治療などの外科的な分野では人の技術が一番であることは言うまでもないことだと思います。どんなに優れたシステムでもそれを過信すればこのような結果を招く可能性があるということを我々は肝に銘じなければならないと思います。そして何よりも患者様の安全第一に考え、万に一つも危険な可能性があれば行うべきではないと私は考えます。私が危惧しているのは最近の傾向としてこの命綱とも言えるステントを信用し過ぎている歯科医師があまりにも多いことです。コンピューターにデータを入力している時、間違いはないかどうか? そのデータを基にステントを作成する段階での間違いはないかどうか? 最後にステントの仕上げをするメーカー側の歯科技工士のミスはないかどうか?考えればこのステントを用いたフラップレス手術はどこかの段階で1か所でも間違いがあれば、非常に重大な結果を招くことになります。私は執刀医としてこのような大事なことに何人かの他人の手が関与していることに対して少なからず不安を感じます。 「疑いすぎ」と言えばそうかもしれませんが、手術の責任は術者の私が負う以上、他人の行った仕事を鵜呑みにすることはできません。

ただフラップレス手術は腫れが少ないなど多くの利点もあることから、万が一、方向がずれても命には係わらない部位にのみ行うのが良いのではないかと思います。 具体的にいえば呼吸困難などを引き起こすような動脈のない上顎にのみに行うべきものと考えています。なぜなら上顎は万が一ドリルの方向がずれたとしても患者様を死に至らしめるようなリスクはないからです。しかし下顎へのフラップレス手術は危険です。このようなことを平気で患者様に勧める歯科医院での手術は避けられた方が無難だと思います。また手術用のステントも作成せず、「フラップレス手術」という名の「いい加減な手術」を行う歯科医師も見かけますがこんな歯科医師に大事な自分の体を預けるのは論外だと思います。 「腫れない、痛みが少ない」と 「安全、確実」、さあ、あなたならどちらを優先させますか?